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2007/11/13

お粗末なメディア

連日テレビ各社が「亀田ファミリー」の話題を取り上げている。以前にもこの問題に触れたことがあるが彼らの下品極まりない姿は語るに落ちるが「協会」のお粗末さは朝青龍事件の相撲協会の幼稚な対応とよく似ている。国技とされる相撲を冒涜した当事者に対しあれほどの対応しかできなかった協会幹部の資質は地に落ちていると言って良いが今回も同様、神聖であるべきスポーツを汚したあの幼稚なファミリーの犯した罪に対し協会の下した処分はあまりにも情けない気がする。全てはあのような子供を育てた親に責任がある。百歩譲って試合前の毒舌は我慢したとしても(我慢できないほどの品格のなさではあるが)真剣勝負をした相手を讃えるなど微塵もなく、挙げ句の果てに処分が厳しすぎるとの親のコメントを聞き、「永久追放」の処分以外選択肢はないと思った。更に言えば彼らの愚行を放置してきた協会幹部こそ処分されてしかるべきではないか?そして更に言えばそれを助長したメディアこそ最大の責を負うべきではないか?
何処かのテレビ番組で2~3のコメンテーター、アナウンサーが反省の弁を述べていたが彼らがブラウン管に登場する資格は無いと思える。
昔、藤猛というボクサーがいた。防御らしい防御は一切せずひたすら相手に突進し一発のパンチで敵をマットに沈める豪快さが堪らず心地よく彼の試合を心待ちにしたことがある。それとは逆に正確なパンチと完璧なガードでポイントを重ねていくプロ好みのボクサーも見応えがあった。
先日の世界柔道で魅せた「田村亮子」=「谷亮子」の格闘家としてのあの集中力、終わった後の清々しさを鳥肌が立つ思いで観戦したがあれこそが格闘技の神髄ではなかろうか。
小泉劇場で踊らされた国民のレベルを考えるとボクシング史上最悪の試合に胸を躍らせた輩も少なからず居たのであろうが、メディアの資質こそ今問われるべきではなかろうか。

2007/10/16

ブログ復活

このお粗末なブログにもファン?が居て月に一度のペースで全国からお便りを頂いていた。最初の内はこんな私の文章にも共鳴してくれる人が居るのかと嬉しくてメールのやりとりをさせてもらう人も居た。しかし熱心なメッセージが返信されてくるたびに、自分の文章の未熟さが恥ずかしくなり二ヶ月前に姿を消すことにした。ところがである、姿を眩ました二ヶ月の間に「貴社のホームページから「不渡哲也の多事争論」と「キャプテン池辺の海の散歩道」が消えたのは何故? 楽しみにしていたのに、、、」と言う小生にとっては恥ずかしくも嬉しいメッセージをメールや伝言で頂き恥を忍んで復活することにした。
ブログ復活の理由はもう一つある。盆前のある日突然一通のメールが届いた。「この二つのブログの主はもしや竹生丸のキャプテンをしていた池辺さんではないか?」と! 直ぐ電話連絡でその方が何方か分かったのであるが、経緯を聞いて少々驚いた。Yさんが仕事の関係でネット上で「砕氷船」を検索したら小生のブログにヒットしたとのこと! 時代遅れかもしれないが改めて情報化時代を実感した次第である。
ところで、夏の甲子園! 久しぶりにあの高校野球(夏の祭典)が還ってきたと嬉しく・楽しく観戦させてもらった。佐賀北の選手の名前が一目見て地元と分かる名前が嬉しかった。江頭・市丸・副島、、、、地元では多々ある名字である。県立・私立は関係ない。地元の野球少年が近くの小中学校から高校に入学し野球を続けついには夢の甲子園に、、、高校野球かくあるべしと拍手を贈りたい「夏」であった。出場選手のほとんどが県外出身者のチームに地元代表としてエールをおくる気には到底なれない私にとって実に痛快な「夏の甲子園」であった。付け加えるならあの監督さんも実に謙虚で好印象であった。準々決勝で勝った監督のインタビューでパフォーマンスをした監督が居たがきっと雇われ監督なのであろう? 二度もやりたがる彼を話題を変え阻止したNHKのインタビュアーにも少しだけ拍手を贈ることにする。

2007/08/24

責任の取り方

コムスンが巷を騒がせている。あの会長の顔を見ていると塀の中に入った「村上某」「堀江某」を思い出す。同じ穴の狢とはよく言ったもの、あれ程の悪事を働きながら全く罪の意識がない。法に触れずに金儲けすることがどうして悪いの?と平然と言う彼らの姿に市場原理主義が世界中に蔓延していることを痛感する。組織に何の理念もないのであろう、そこで働く若者達も同じ様な人種なのかと思うとやりきれない。何もかもがアメリカナイズされ日本のみならず世界中が大きなウネリに飲み込まれようとしている。それにしても彼らの「責任」と言う事に対してあまりにもお粗末な対応を見ていると「日本人の誇り」と言ったものが確実に崩壊しているように思う。サムライが責任をとって腹を切ると言う武士道の背景には命を賭して事にあったうえでの責任の取り方が「切腹」であった。悪事を働き命を絶つしか道が無くなって、、、、これは「責任をとる」には当たらない。日銀の総裁や厚労相があれ程の背信行為をしていながら未だのうのうと現職に留まっている姿はもはや論外である。昔ニューヨーク沖でライバル会社のK水産のトロール船が沈没したとき真っ先に救命ボートに乗り移ったのが機関長だったと言う話を聞いたが同じ船乗りとして恥ずかしい気がしたものである。逆の話もあった。小生が二等航海士の頃、冬の道東沖で2万トン級の貨物船が時化のため沈没した。その時の船長は乗組員を退船させたのち船と運命を共にした。リーダーとしての責任の取り方とは何か?自分が船長時代は常に頭の何処かにそれがあった。乗組員の命を守り、彼らの家族の生活を背負い、会社の財産を任される「重み」、何を大切に指揮を執るかを明確に認識していれば結果(行動)は自ずとついてくるものである。「性根」が据わるとはリーダーの大切な要素だと確信する。

2007/06/11

感性

行き付けのラウンジに通称「カオリン」と言うバイトの可愛いお嬢さんが居る。20代後半のその彼女が店を辞め自分でフランス料理店を開店するという。会社勤めとバイトでせっせとお金を貯めては海外旅行をしていたという彼女にキラリと光る感性を感じていたが、なるほどなあと感心した。若さ・感性・行動力が備わった人には「何かをやれる」エネルギーを感じるものである。それに引き替え、、、、最近の男子には若者特有の「若さ」「清々しさ」「潔さ」と言った魅力を感じさせてくれる人材が非常に少なく感じる。弊社の社員募集に応募してくる若者と面接をしても「感じさせる」ものが全くない人が多い。先日我が社の「幹部社員研修」で「組織とリーダーシップ」と言う演題で約一時間半の雑話をした。団塊の世代以降の若い人達が組織を構築し人を引っ張っていく為のヒントになればとの想いから予定時間をオーバーして喋ってしまった。40代、50代の人達に「器量」を求めても可愛そうな気がするほど地に足の付いた生き方をしている若者は少ない。それを諭そうとお説教をしても先ず期待した成果はあがらない。自分を知らなさすぎるからだ。「感性」は幼少時代の生活環境が7~8割影響していると言うのが小生の持論である。残り2~3割は「努力」で身に付くわけであり、この努力こそが大切なのだと彼らに訴えた。昔ニューヨークに入港したとき町中を散策した時のこと、前方から日本人らしい留学生風の娘さんがニューヨーカー気取り風に颯爽と歩いてきた。すれ違いざまに乗組員の同僚に「日本人かなあ?」と声をかけたのであるが、彼女が通り過ぎようとした瞬間「日本人です!」と意外にも応えてきた。その時の凛とした響きが凄く心地よく清々しかったのを記憶している。あの彼女も素晴らしい人生を歩んできたに違いない。

2007/06/08

特攻隊

先日「俺は君のためにだけ死ににいく」と言う映画を鑑賞した。「男達の大和」に比べれば若干良かったとは思うがどうもこの手の日本映画は頂けない。時代考証もピンとこない。車や建物、周囲の景観と服装がマッチしていないのである。当時の服装に違いないのであるが衣服が綺麗すぎて臨場感がない。今日、時代劇を演じきれる役者が少なくなったのと同じように戦時中の若者の気高さを演じられる若い役者も又居ないのであろう。それよりも気になったのが原作(脚本)者のあの傲慢さが表に出過ぎるのである。やはりあの都知事は危険人物なのかなと思ってしまうシーンが何カ所かあった。主演女優?の岸恵子の演技も物足りなかった。到底トメさんを演じきれていなかった気がする。総指揮を執った元作家にしてはタイトルも頂けなかった。がしかし手に持ったハンカチはかなりの水分を含んでいたことは確かである。あの時代の若者の気高さは実に清々しいし、日本人の誇りさえを感じさせてくれる。それにしても日本・日本人とは実に不可解?な民族であると改めて思った。人類に類の無いほどの「文化」を持ちながら、あれほど短期間にアメリカナイズされてしまった日本とは?、、、ついつい考えてしまう。現代の若者には戦前の日本、戦中の日本の若者の生き様をどんな形にせよ学ぶ機会を持って欲しいと切望する。出来うることなら教育現場ではなく家庭環境のなかでそれが出来ればこれからの日本も捨てたものではないのであるが、、、、。

2007/06/04

有田陶器市

今年も又「有田陶器市」に出向いた。家内の影響もあって「有田」に通い始めて35年になる。磁器の美しさに魅せられて期間中2度通うこともあったが最近では磁器から陶器へと感心が移ったせいか「目の保養」的有田詣で?になっていた。そんな中今年は初日と最終日の2度有田を訪れてしまった。35年間で、もう買うものが無い!と言うほど磁器を買ったが毎年新作を見るのが楽しみなのと今右衛門・柿右衛門・青木龍山・井上万治など有名な磁器の匠の作品を眺めるのが唯一の楽しみで朝早くから出かけてきた。友人の窯元の話では年々売上は減少しているとのことであったが、毎年「今年は昨年より人手が少ないな、、」が我々の口癖になる程出かける人も減少してきた感がある。高級な器は売れず一個何百円かの日常使用する器が売れているとか、、経済格差がこんな所にも表れてきたのかとゾッとした。有田を訪れる人も様変わりをしてきた。バブルのころは「有田通?」と言って帽子を被りリュックを背負い、手には軍手が定番であった。ここ1~2年最も変わったのはペット連れの人が急激に増えた事である。とにかく若い人も年輩者もやたらペット同伴である。家族同様にペットと暮らしている人達であろうが、ゆっくり器を鑑賞できるのだろうかと要らぬ心配をしてしまう。時代と共にデザインも形も少しずつ変化しているが食に直結する器に興味を持ち目を肥やす若い人達が少しでも増えていくことを願いつつ有田を後にした。

2007/05/17

子供の国日本

教育基本法の改正を異常なまでに急ぐ政府、裏腹に「シンポジュームのやらせ」が堰を切ったようにマスコミに登場するようになった。小泉前首相の行った?「改悪」が次々と形となって表れる昨今、「劇場全盛」時代何も批判めいたことを言わなかった評論家達が挙って小泉批判を始めた。「やらせ」の現場責任者もたまりかねたように中央の指示でやむなくやったと開き直りとも思えるコメントを発し始めてしまった。それでも新首相は「教育基本法の改正を一時も早く、、、、」と迫力のない答弁を繰り返している。なんとも情けないリーダーである。北朝鮮からミサイル擬きの一発でも撃ち込まれようものなら取り巻きの閣僚達と右往左往するのであろうが何とも情けない政治・国になったものである。日本は世界有数の品格(道徳・情緒・教育・文化etc)を備えた国であると子供の頃から「日本人」の優秀さを誇りに思ってきたが昨今の日本の有り様を見るととても恥ずかしい思いがする。あの村上ファンドの間抜けな顔をした代表が声をうわずらせ「金儲けがそんなに悪いことですか?」と宣って塀の中に入っていったのは何時だったか?それを未だに肯定する企業家が存在し堂々とテレビに登場する、、、一向に「国柄の崩壊」に歯止めがかからない現状を「大人の国」はさぞや冷ややかに眺めているのだろう。内政・外交ともに前首相の残した罪は計り知れない程大きいのではないだろうか。

2007/05/04

つばめ

3月下旬のある日、我が家にツバメが帰ってきた。新築した翌年家の軒下に五つの巣を作ったツバメ達が毎年通うようになって10年になる。子供の頃の記憶では「ツバメ」は梅雨の代名詞だったような気がするが、桜の開花以前にツバメが飛来してくるなど思うだにしなかった。桜前線と言うのも昔は南から緯度線に沿って北上して行ったような気がするが、ここ数年九州よりも東京の桜が早く開花したりと何やら不思議な現象が起きている。九州や関東で4月に雪が降ることや冬場に台風が日本近海に近づくなど当に自然環境が急速に変化している証拠であろう。地球規模での異変はテレビの特番などでよく見聞きするが身の回りの日常生活からはあまりピンと来るものがなかった。さて、そのツバメであるが10年前我が家に住み着いた?当時は雛をかえすのは1シーズン1回だったがここ数年シーズン中2度雛をかえすようになった。5匹の雛が狭い巣の中でひしめき合って親鳥が運んでくる餌を待つ姿は見飽きることがない。顔いっぱいに口を広げ餌を食べるしぐさ、一匹づつ羽を広げ巣立つ準備をする姿や、勇気を出して飛び立つ巣立ちの日は感動物である。ある年、その可愛い雛が「カラス」に襲われ全滅したことがあった。その前にも友人からもらった鶏を庭に放し飼いしていたとき「カラス」の餌食になったことがあったがいまだにあの黒いカラスを見ると憎くてたまらなくなる。道端でカラスを見かけるとクラクションを鳴らして驚かすのであるが悪党ガラスは一向に驚かない。併走している車のドライバーはしっかり驚いてくれるのであるが、、、。
我が社の社内報に掲載される社員の原稿に子供・家族の記事が増えてきた。家族を想い、子供の成長を楽しみにしている社員の記事を見るたびに嬉しさと同時についついあの可愛いツバメの家族とダブらせる自分に苦笑する。

高野連

西武の裏金問題に端を発した高野連の対応はお粗末限りないものであった。特待生制度自体賛否両論があるが、高野連と言う組織自体に疑問を感じた人も多かったのではなかろうか?私立高校のうち県レベルで常に上位に位置する学校では「特待生制度」は常識であったにもかかわらず何も手を着けなかった彼らの責任はそっちのけで聖人君子のようなコメントを出す何処かの官僚のような態度に怒りを覚えた野球ファンは多々居たはずである。特待生制度の是非をしっかり議論し、現実に即したルール作りをし、チェック機能を強化する作業こそ彼らがもっと早く着手すべきであった。野球少年のなかには家庭の事情でこの制度のお陰で高校に進学できた子供も居たはずであり、彼らを巻き込むことは罪なことである。春の選抜、夏の甲子園を目指している高校球児にもっと心ある処置をしてやるのが「高野連」「大人」の仕事ではないだろうか。全ての責任を高野連幹部の管理不足として彼らが職を辞して欲しかった。その後でもっとハッキリしたルール作り、チェック体制に取り組めば良いのでは?と思ってしまう。我が県の私立高校には「特特進」「特進」と言う制度を設けて居る高校があるが全国でも同じようなシステムの私立高校が多々あると聞く。この制度自体にも疑問を持っていたが、世間は容認?している感がある。こうしたスポーツの特待生、学業の特待生問題とプロ球団が憲章に抵触するような問題は別問題である。度を超した悪質な高校は別としてもっと寛大な処置を切望してやまない。

2007/04/29

卆寿

先週末、義父の誕生祝いで上京した。満開の桜と都会の喧噪に違和感を覚えつつも絶えず変化し続ける大都会の様子をしっかり目に焼き付けてきた。ところでその義父であるがこの度目出度く「卒寿」を迎えた。長崎大学医学部を卒業後内科医を開業し65年、未だに現役の医者を続けている。老人の患者さんを相手に「まだまだ若いのだから、、、」と毎日の診療は勿論、動けない患者さんの所には自ら車を運転して往診もしている。この度の卒寿のお祝いに私の息子達がパソコンをプレゼントした。90歳と言う高齢になってなお新しい事にチャレンジする「意欲」にはただただ脱帽するばかりである。新聞は未だに英字新聞しか読まず、暇なときはクラシック音楽を楽しみ、週末は自分で愛車を運転して熱海の別荘まで出かける、、、何とも羨ましい人生を謳歌している。寡黙で気負い無く淡々と人生を送る姿は小生の目標とする生き方であるがとても足下にも及ばない。人生を長く生き、一事に精通した人には「哲学」がある。言葉では言い表せない経験則に基づいた「重み」を感じるのは、こういう人々に共通している。書物から得る知識、見聞きする知識も大切であるが「経験則」から養われ、身に付いた「哲学」には人を引きつける「何か」がある。
次は白寿の祝を是非とも!と約束して東京を後にした。小生も古希まで頑張らねばならなくなったなあと元気な義父の顔を思い浮かべながら眠りについた。

2007/04/06

ペナントレース開幕

いよいよセパ両リーグが開幕した。野球評論家?の不渡哲也がここ数試合から予想した両リーグの優勝チームはパリーグはソフトバンクホークス、セリーグは中日ドラゴンズ!最下位はパが楽天イーグルス、セは横浜ベイスターズで決まり。但し今年からセもプレーオフが導入されるため日本一となるとセはジャイアンツの可能性も出てくるがパはホークスでほぼ決まりとなる!が小生の予想である。選手の技量もさることながら開幕を迎えるまでのチーム補強と監督の采配技量で概ね予想は当たってきた。余程の新星が表れない限り投手力のあるチームが必ず優勝戦線に残ってくるのがプロ野球である。打撃ほど当てにならないものはない。他チームでは4番を任せられる選手をズラリと並べた野球をしてみたいと嘗てあの長島さんが仰っていたがこの人は野球を知っているのだろうか?と素朴な疑問が生じたものである。監督の采配は無論大切な要素ではあるが「人間性」もこの世界では成績に大きく影響する。嘗ては三原監督・仰木監督のような選手から慕われる名監督も居たが今は居ない。敢えて言うならばホークスの「王」監督?今のホークスは選手が一丸となって監督のために優勝しようと珍しく燃え上がっているのが印象的だ。3年前いきなりリーグ優勝を果たした原巨人、、あっという間に失速したが彼の采配(ベンチでの姿)を見る限り監督としての技量には首を傾げたくなる。ベイスターズの監督もそうであるがコーチ陣が「仲良しクラブ」では組織は成り立たない。名選手、名監督にあらずでコーチとしての才能を見定めきれない人に監督は務まらない、、、と言うのが小生の持論である。日本シリーズまでの半年、楽しみが増えた。

2007/04/04

国の崩壊

私の学生時代、遠洋航海で立ち寄った国々で「日本」は特別な国と言う印象をことさら強く感じ誇りに思った時期があった。何処に行っても「円」が通用し、人種差別の酷い国でも「日本人」は白人扱いだったし、ニューヨークの治安の悪さに比べれば日本は当に世界一治安の良い国であった。阪神大震災の時あのパニック状態の中でも信号を守る日本人を見て外国の記者が日本人のモラルの高さに驚嘆したと言う記事を見たことがあるが当に20年、30年前の日本は世界に誇る「良識」の国だったと思う。ところが昨今の「日本」はどうだりう?治安を守る警察が飲酒運転で捕まったり、犯罪を犯したり、教育の最前線の学校で働く教員が起こすお粗末な事件、国政を担う議員さんや官僚のあまりに低いモラル!「国柄の崩壊」に歯止めがかからないどころか拍車がかかっているというのが今の「日本」の姿ではないだろうか?。政治では小泉元首相のあの薄っぺらな発言、他の政党の議員を軽蔑したような答弁、「良識」を押さえ込んでしまう独断と偏見etcとても一国のリーダーとしての資質を持ち合わせた人物では無かったと確信している。スポーツでは亀田3兄弟とその父親のレベル。誇りと命を懸けて闘った相手に何の敬意すら表せないモラルの低さを見るにつけ「家庭教育」の崩壊も現実のものとなった感がある。経済に至ってはホリエモン・村上ファンドの事件が代表するような「日本の道徳」の崩壊、そして最も危惧するのはそれらを伝えるメディアのモラルである。国柄の崩壊に関するこれらのニュースを流すメディアが一度たりとも「犯人」がブラウン管に頻繁に登場する時批判的なコメントを流したのを聞いたことがないと言うことである。世論の流れを感じたコメンテーター達が平気で違ったコメントをしているのに気づいた人も多いのではないだろうか。一般国民レベルでは世の中は変えられないことを政治家も官僚も国民も概ね理解している。己を捨てて命を懸けて「国」を考え得るリーダーが居ないのである。実務を司る官僚に真のエリートがいないのである。いや居るのであろうが彼らが世に出る機会を潰している輩が未だに存在しているとしか思えない。この辺の「改革」こそ真っ先に取り組むべき改革のはずであることは明白である。地方自治体でもお粗末な事件が後を絶たない。あれほど旧態依然とした、地方自治を私物化出来る様な体質であるならその逆もできる筈である。我が身を省みず命を県政に捧げるようなリーダーのお手本になれるような人物が現れても良いのではと期待をする昨今である。

プロ野球の衰退

ベースボールの世界がシーズンオフになり俄にトレードやFAの話題がスポーツ紙を賑わしている。先週から行われている日米野球を見ていて大リーグも変わったなとの印象を持った。投手と打者の勝負で従来の大リーグでは見たことがないような勝負の場面が何度かあった。直球で打者を仕留めることが命と言うような大リーグの慣習?では必ず最後の決め球は直球(それが大リーガー投手のプライド)であり打者はそれに真っ向から強打していったものであるが今回の日米野球では「かわす」投球が何度もあったのには少々驚いた。野茂やイチローの様な変化球を決め球にしたり、セコセコしたヒットを狙う選手が大リーグで活躍しチームの勝利に貢献している以上アメリカ野球も変化してきたのだろうが日本のプロ野球と変わらない「ベースボール」には興味が半滅する。それだけ日米間の差が無くなってきたのかもしれないが、、、。それにしても彼らの年俸、契約金の多さにはどうしても首を傾げたくなる。それ程の価値が彼らにあるのか甚だ疑問であるし、何よりそれだけ「プロ野球」がファンに夢を与えるに足るプロスポーツなのか?球団が大赤字を打ってまで経営を続行するだけの宣伝効果があるのか?どうしても私には理解できない。長島や王が年俸交渉に一切クレームをつけなかったことは時代なのか?日本プロ野球の将来を憂うならファンが気楽に球場に足を運べるような工夫をどしどし実行すべきと思うのだが。観客席がガラガラの球場で年俸1億円の選手がプレーしている光景を選手本人、球団、ファンはどのように感じているのか当事者に聞いてみたくなる。話は変わるがフィギュアの安藤美樹が復活したのは楽しみである。オリンピック前の自信喪失?の彼女とは打って変わって自信と気迫が漲っていた彼女の演技には感心した。精神的な強さが備わった証拠であろうがこれからも益々成長し北京では荒川に続くスターになって欲しいものである。

リーダー不在

二回目の党首討論を見て失望した。先ずは新首相、前首相の病気に感染したように暴走(暴言?)する二人の大臣に歯止めをかけられない弱さを自ら暴露してしまった。対する野党党首の迫力のない質問にも大いに失望してしまった。日本には二大政党制と言うのは適していないのではとさえ思ってしまった討論会であった。賛否はさておき核保有に関する論議はもっと慎重に成されるべきではないだろうか?正直に本音を言う二人の政治家、そう言う意見もあってしかるべきであるが政府の要人ならもう少し慎重にやって欲しいものである。腹の奥に幾つもの顔を持つくらいの老齢さが全く見あたらない。その点中国の政治家達は強かである。日本でも戦国時代の武将の中には「人物」がたくさん登場する。大河ドラマ「巧妙が辻」もクライマックスを迎えようとしているが日本の政治家の皆さんも少しは「家康の手腕」を参考にしたらどうかと言う場面が多々ある。最も小生は家康嫌いではあるが、、、。国民がもっと政治に関心を持ち利口になれば必ず今の政治には「NO」と言う日が近々訪れることは間違いないと確信する。アメリカがそうであるように!日本の良さを再確認し、それを教育に反映させるようなシステムの構築こそ教育基本法の原点と思えるのであるがどうも今の世の中その逆方向へのスピードが加速しているようにみえてならない。先日出張で韓国を訪れたが社会的な問題は日本と余りにも酷似しているのに驚いた。韓国でも格差が急速に進行しつつある。経済格差(貧富の差)、教育格差(エリート階級への思考)は日本以上かもしれない。そんな中同行してくれた韓国人の社長(別府で免税店を経営)が紹介してくれた方々は日本人が失いつつある「情緒」を備えたとても愛すべき人達であったのが何故か無性に嬉しかった。

若いパパとママ

先日友人の娘さんの結婚式に参列した帰り基山のパーキングに立ち寄ったときのこと。駐車スペースに車を寄せサイドブレーキを踏んだとき目の前の空きスペースに一台の車が入って来ました。かなり年期の入ったその車から未だ小学校前らしい小さな二人の子供さんと若い両親が降りてきました。我々も同時に車を降りたのですが、そこで素晴らしい光景を目の当たりにしたのです。彼らの古びた乗用車の横に誰が捨てたのかポリ袋に包まれたゴミが二つ投げ捨てられていました。小さな子供さんがそれを避けて通り過ぎようとしたとき母親が「ゴミを拾いなさい~」と幼い子供に言ったのです!若いパパと子供が無造作に捨てられたゴミ袋を楽しそうに拾いながら少し離れたゴミスポットに歩いていきました。質素な服装、古びた車、、、そして幸福そうな4人の家族、何と素晴らしい家庭なんだろうと彼らの姿をみて心が和みました。我々夫婦も若い頃、5人の息子にそうしたことがあったなあと昔を懐かしみも出来ました。教育問題が騒がれる昨今、日本の良さは捨てたもんじゃない!こんな素晴らしい若い夫婦が居るではないかと!本当に嬉しくて仕方がありませんでした。反面公共の場に平気でゴミを捨てて立ち去る輩も居るのです。「企業は人なり」とよく言われますが「国も人なり」です! 日本人が最も世界に誇れる「情緒」「道徳」が雪崩のように崩れ去っていく昨今、政治はそれに輪をかけるようなことばかりをしてきました。小泉劇場はその典型です。そして後を継いだ現政府もちぐはぐな事ばかりが目立ちます。国の再生は政治から、まともなリーダーの出現を生きて見られるのか??? パーキングで見たあの家庭が幸せに暮らして欲しいなあとつくづく思っています!

リーダー

ブッシュ大統領のお粗末さに歩調を合わせるように安部内閣の大臣さん方も負けず劣らずのお粗末振りを披露しています。政府と政党がまったく違った生き物のようにあらぬ方向へと進んでいるようで、これもまた小泉政権の負の遺産なのでしょう。厚生大臣の想像を絶する?無神経さ、防衛大臣の軽率な言動、そしてこれらの不祥事を非難する古参の先生方等等これが今の日本の政治のレベルかと目を覆いたくなる昨今です。あれほど騒いで、血税を使い郵政民営化をごり押ししサッサと逃げた前首相の罪は計り知れない程大きいのだと何時か国民も気づく筈、ブッシュが合衆国大統領史上最悪の「人」であったと言われるように。これほど隙だらけの政府なのに、政権交代のチャンスなのに民主党もまた同じようなレベルの先生方が何も出来ずに後手後手?しているようでは日本の将来はお先真っ暗としか言いようがありません。人間の性として「傲慢さ」は誰しも大なり小なり持ち合わせているものです。常に謙虚に自分を見つめ、戒め、努力を怠らない人には「傲慢さ」は出てきません。権力を手に入れると往々にして傲慢さが表面に出てくるのが人の常です。「国」も同様で、「大国のエゴ」というやつです。国益と言う名の下にエゴとエゴがぶつかり合っているとしか思えないのが国連の安全保障理事会を見ていると良くわかります。国も会社も組織も全ては「リーダー」の資質で運命が決まります。高い理想、確固たる目標、強固な意志、そして他人の心を汲み取る器(人徳)、、、このような資質を持ち合わせた人に決して私心はなく己の全てを国や会社や組織に捧げる事が出きるのです。企業家の中にはこれに近い人が居るのに政治家にそういう人物が居ないのが不思議でしかたありません。素晴らしいリーダーの居る国民、立派なリーダーの居る会社の社員、全幅の信頼を寄せられるリーダーの居る組織の人々は幸せです。「リーダー」を誇りに思い「宝」と思っている国民・社員・人は「リーダー」からも「宝」と思われているのです!

沖縄

先日悪友3人と連れだって沖縄に旅した。目的はゴルフであったが前後の自由時間を利用して沖縄観光をした。今帰仁(なきじん)城趾、首里城、ひめゆりの塔と廻って最後に「海軍司令部壕」を訪れた。太平洋戦争中、日本国民が最も犠牲になった激戦の地であり映画や小説、ドキュメント番組などで何度となく見聞きしていたが、壕の中に入り背筋の寒くなる思いをした。鹿児島県・知覧の「特攻隊記念館」を訪れ、年若い特攻隊員の残した遺書に涙したのとは違った感覚に襲われた。2万人以上の国民(沖縄県民)が軍(国)のために献身的に闘ったわけで、そこに幾多の悲話が存在したことを思うと胸を詰まらせてしまった。昭和47年沖縄返還の年、沖縄県民の雇用政策の一環として小生の船にも幾人かの若者が乗船してきた。訛りの強い沖縄弁、のんびりした性格は船乗りには余り適しているとは言えなかったが先輩乗組員からよく叱られていた。酔うと「俺らは琉球王朝の末裔だ~」と言っては又皆んなから馬鹿にもされていた。当時、沖縄戦の現状をもう少し理解していれば彼らをかばってやれたかも、、と思ったほど沖縄県民の歴史には「戦争」なくして語れない犠牲が存在している。そんな中最も印象に残ったのは司令官太田少将が自決する直前、海軍次官宛てに送った文章である。軍人としての責務を全うし最後の最後まで戦の指揮を執った人物がこれほど冷静にこれほどのことを思い、綴ったのかと指揮官としては無論人間の器の大きさに感嘆した。多くの民間人(沖縄県民)が軍の作戦に献身的に協力してくれたこと、後世その犠牲に対し国として報いて欲しいと言う内容であるが、この遺言とも言えるメッセージが民間人への想いであったことは如何に悲壮な戦いであったかを物語ると共に司令官としての器量の大きさそのものと思った。これほど素晴らしい人物が幾人も居た日本、時代は変わったとは言え今の日本にこの様な人物は見あたらない。

東京マラソン

昨日の東京マラソン、時折テレビで見ながらさて何パーセントの人がこのイベントに賛成するのだろうか?との思いに駆られた。大都会の主要道路が長時間に渡って閉鎖され、困った人達も多々居たであろうにと小生はこのイベントに異議を唱えたくなった。そもそもは石原都知事の言動に違和感を感じていたところから始まるのであるが、、、。地方自治、国政のリーダーは庶民?の出身者が望ましいと近頃思うようになった。高級料亭での官官接待一つ取っても、とても庶民は理解できない行動であるが何の疑問もなくそれをやってのけるリーダーが「格差」の実体をどれ程の認識で把握しているのか甚だ疑問である。
真摯に!本気で!国政、県政に取り組もうとすれば担当部署の責任者と四六時中顔をつきあわせ説明を聞き議論し方向性を確認しあうと言うような作業をやらねばならない筈で何日に一回しか登庁しないようなリーダーはリーダーたる資格がないのでは?と思ってしまう。3万人近い市民ランナーが歩きながらゴールにたどり着き、ボランティアの人々に「有り難う!」と声をかけている姿が放映されていたが、このイベントのお陰で迷惑を被った人々にも声を大にして「ご迷惑をおかけしました、有り難う!」と言って欲しいなあとついつい思ってしまった。我が県でもJリーグに参加できるチームを創ろうとサッカー大好き人間が立ち上がったことがあったがこれに県も市も賛同?し遂にはJ1への切符を手に入れた。大借金を抱えることになったドーム、大赤字のチーム、血税をこれらに投入することにスポーツファンですら異議を唱える人は多々居るはずである。それほど巨額な資金を費やすなら他の選択肢もあったはずであるが?100%賛同を得られることなど100%あり得ないが大切な事前の「討議」が蔑ろにされているのが昨今の政治に顕著に表れている。そしてそれが世の風潮ともなっているのではないか?議論は「判断」の材料であり、それを参考に「決断」を下す、これが真のリーダーたる所以ではなかろうか?