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2008/05/31

有田詣で

有田に通い始めて35年、今年は青木龍山さんが亡くなられたこともあり「天目」の作品を見たくなりまたまた出かけてしまった。年と共に訪れる人の数は間違いなく減少しているがその分ペット同伴の家族が増えたことは昨年同様であった。有田の出店も年々減少している感じがしたが訪れる年齢層は若い人が増えたのは何故であろうか?友人の窯元の話では人はそこそこ来てくれるが「買わない」人が増えたとか、、、ここにも不景気の波が押し寄せているのだと実感した。船乗り時代は乗船中に陶器市が重なっても卸団地に年2~3回は通う程の「オタク」振りであったが最近は少しずつ興味が薄れてきた気がする。若い作家の作品が増えたのと国宝級の作家の新作になかなかお目にかかれないのが足が遠のく原因ではなかろうかと自分勝手に解釈してはいるがやや寂しい気もする。美しい磁気も渋い陶器もどちらも好きであることには違いないが、最近の自分は美しさよりも渋さ、即ち陶器のほうに興味が移っていくような気がするのは歳のせいであろうか? 未来永劫「伝統」が引き継がれていく保証は何処にもない。有田は何をどのように引き継いでいこうとしているのか?その舵取りは誰なのか? 出店が減った分食べ物屋や陶器とは関係のない商材を陳列する店が増えたことを見ても関係者の苦労が理解できたが幸い天候に恵まれただけでも今年は「良し」と思うしかないのでは?と同情にも似た気持ちで有田を後にした。苦悩する陶器の街を感じる「35年目の有田詣」であった。

2008/05/06

格差社会

幼少時代に聞いた言葉「一億総中流」、、戦後の日本を象徴する言葉としておぼろげに理解し、周囲を見渡しナルホドとも思っていた。現在はどうかと言うと連日のように「格差社会」と言う言葉が飛び交うほど大きな社会問題になっている。「努力したものが勝つ、しないものは負ける、当然じゃないですか!」と平然と言った馬鹿な首相が居たが市場原理主義の流れに逆らうどころか「やりっぱなし社会」の基礎を作ってしまった感さえある。民主主義国家、自由主義国家である以上物理的格差はある程度やむを得ないとして、小生が心配するのは「情緒的格差」の広がりである。嘗ては、自然と親しむ姿勢ひとつとっても庶民には庶民なりのスタイルがあり質素な中にも情緒を楽しむ心の余裕があった様に思う。社会環境・家庭環境が原因で起こる殺伐とした事件が後を絶たないのは近年の教育制度にその主因があるのではないか? 人を信じることが出来ない寂しい人が居るが、彼らは自分自身を信じられないが故に「自分を保つ」ことで精一杯なのであろう。一生自分可愛さから「俺が、、、俺が、、、」と言い続け疲れ果てるのが関の山、このような哀れな人間にならないようにと「ゆとり教育」なるものが発足したと解釈しているが?果たしてあっという間の方向転換!!である。 
我々の学生時代は当に「詰め込み教育」の全盛時代であったが、情緒豊かな人間や血気盛んな若者がたくさん居たと確信する。人の心に情緒が宿るも失われるも全ては社会環境・家庭環境に左右されるのではないか?弱い人間ほど「人のせい」にするのは得意であるが、昨今のテレビでの謝罪会見を見ているとエッ?と思わずには居られないような低レベルの責任者風?の人物のコメントを聞くことがある。テレビ番組を見ても「考えさせられる」ドラマ、番組のなんと少ないことか!これに変わってお笑い番組は目白押し! これこそ「情緒的格差」の表れと思うのだが?
これほどはっきりした四季があり、その四季を楽しむ文化があり、世界最古の小説が生まれた文化、、世界に類を見ない「情緒」をもった国民・国である。
せめて「情緒」だけでも格差のない、人それぞれの環境の中で自然に親しみ、人の心に接する豊かさだけは失わずに済む様な国・社会環境・家庭環境を守ってゆきたいものである。