ページ

2007/04/04

沖縄

先日悪友3人と連れだって沖縄に旅した。目的はゴルフであったが前後の自由時間を利用して沖縄観光をした。今帰仁(なきじん)城趾、首里城、ひめゆりの塔と廻って最後に「海軍司令部壕」を訪れた。太平洋戦争中、日本国民が最も犠牲になった激戦の地であり映画や小説、ドキュメント番組などで何度となく見聞きしていたが、壕の中に入り背筋の寒くなる思いをした。鹿児島県・知覧の「特攻隊記念館」を訪れ、年若い特攻隊員の残した遺書に涙したのとは違った感覚に襲われた。2万人以上の国民(沖縄県民)が軍(国)のために献身的に闘ったわけで、そこに幾多の悲話が存在したことを思うと胸を詰まらせてしまった。昭和47年沖縄返還の年、沖縄県民の雇用政策の一環として小生の船にも幾人かの若者が乗船してきた。訛りの強い沖縄弁、のんびりした性格は船乗りには余り適しているとは言えなかったが先輩乗組員からよく叱られていた。酔うと「俺らは琉球王朝の末裔だ~」と言っては又皆んなから馬鹿にもされていた。当時、沖縄戦の現状をもう少し理解していれば彼らをかばってやれたかも、、と思ったほど沖縄県民の歴史には「戦争」なくして語れない犠牲が存在している。そんな中最も印象に残ったのは司令官太田少将が自決する直前、海軍次官宛てに送った文章である。軍人としての責務を全うし最後の最後まで戦の指揮を執った人物がこれほど冷静にこれほどのことを思い、綴ったのかと指揮官としては無論人間の器の大きさに感嘆した。多くの民間人(沖縄県民)が軍の作戦に献身的に協力してくれたこと、後世その犠牲に対し国として報いて欲しいと言う内容であるが、この遺言とも言えるメッセージが民間人への想いであったことは如何に悲壮な戦いであったかを物語ると共に司令官としての器量の大きさそのものと思った。これほど素晴らしい人物が幾人も居た日本、時代は変わったとは言え今の日本にこの様な人物は見あたらない。