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2012/05/30

事故調査委員会

東日本大震災直後の政府の対応について事故調査委員会の質問風景がTVで放映されている。想像はしていたが余りのお粗末さに空恐ろしささえ覚える。あらゆ る危機に対応する「組織」「指揮系統」が戦後から今日まで構築されていなかった事実が証明されたようなものである。現政権を批判する自民党が何をしてきた のか?彼らに他党を批判する資格など更々ない。小泉政権時代、得意になって大根役者ぶりを発揮していた彼らとそれに踊らされている国民を冷ややかに見てい たが、その前後のリーダー全てに一国の舵を握る器をもった人物は悲しいかな皆無であった。今世間が注目している?東京や大阪の首長とてその例外ではない。 これからの日本の舵取りを任せられる人材では決してない。「壊す」ことはたやすいが確固たる意志を持った強固な組織を創ることはそれなりの、否かなりの人 物・器量の持ち主でなければ務まらないものである。以前このブログでも述べたが震災当初、首相がヘリで現地に飛ぶなどもってのほか!と述べたがそれくらい 日本の危機管理のお粗末さ、組織の未熟さは酷いのである。良き政治家を送りだすのは国民であり、もっと国民は賢く、国を憂う気持ちを強く持たなければなら ないと痛感する昨今である。それを促す役目になってほしいメディアのなんとレベルの低いことか。低次元の番組ばかり、なんでこいつが司会者?と疑いたくな るようなおっちゃんとコメンテーターが出演料幾ら貰ってるの?と寒心するくらいのお話を朝早くからやっている。政治家以前に日本人の国民性の崩壊に何処か で誰かが歯止めをかけないと本当に日本沈没が現実味を帯びてくる。そういう観点からすると「がれき処理」問題は深刻である。反対派と称する輩の言動を見て いるとそれを否応にも感じ不愉快この上ない気持ちになる。この国の危機に対し自分たち(直接被害に会っていない地域の人間)は何をなすべきか?何が出来る か?をどうして考えないのか?理解が全くできない。我が県知事は長期政権に君臨した前知事に比べ数段好感を持って支持してきたが、ことこの問題に関しては 対応の遅さに失望した。小生の嫌いな都知事であるが「がれき処理」を即実行した点だけは評価している。話が逸れてしまったがタイトルの問題、責任追及より もこれからの危機管理とルール作りの為と言う大義名分のうえで行ってほしいと切望している。今後立派なリーダーの出現は望み薄なだけに、誰がなっても組織 が機能し危機を乗り切るだけの体系を確立しなければならないと確信する。

2012/05/16

沖縄返還

1971年5月15日、戦後25年間アメリカに占領されていた沖縄が日本国に返還された。昨日は沖縄返還40周年の節目の日であった。今の日本国民のうち どれだけの人がどのように此の事を受け止めているのだろうか?テレビでも特番を組んで良いほどなのに流れるニュースは何時もと変わらぬ「基地問題」ばか り、もっと多くの若い人(大人も含めて)に事実を知ってもらい、考えてほしい事柄であるのだが、、、。
小生が二等航海士として西アフリカ海域に赴任していた時(返還2年後)多くの沖縄出身の新人乗組員が派遣されてきた。本土復帰した沖縄の人々の雇用対策の 一環とのことであった。小生の船にも知念君と言う若者が乗船してきた。南国育ち特有のノンビリした大人しい若者であったので気性の激しい船乗り家業には無 理があった。毎日のように仕事でしごかれ、ワッチあがりの食事(酒の席)時には酒の肴にされ?よくいじめられていた思い出がある。大人しい彼ではあったが 時たま悪酔いすると「俺は日本人じゃない!琉球王朝の末裔なんだ~」と言っては又虐められていた。小生とて当時は沖縄返還の背景については詳しいことも知 らず興味もなかったから「沖縄人は粘りがない」「瞬発力がない」「船乗りには不適格」と言う印象しかもっていなかった。
浅はかな自分を大いに反省させてくれたのは小説「運命の人」を読んでからである。何か月前か山崎豊子原作の「運命の人」がテレビで放映され毎週見てきたが 小説に匹敵するほど興味深いドラマになっていた。彼女の作品は「フィクション」とはいえほぼ史実に沿った内容であるのが特徴であり興味深い題材が多い。白 い巨塔・華麗なる一族・不毛地帯など乗船中は良く読んだ小説である。小生の五男(五人兄弟の末っ子)が沖縄出身の女性(五人姉妹の長女)と結婚したとき、 彼女の故郷「今帰仁村」に行ったことがある。有名な首里城よりも「今帰仁城址」のほうが「沖縄」「琉球王朝」を感じることが出来た。戦前・戦中・戦後の沖 縄を今の若い人たちには是非この機会に勉強してほしいと切望する。更に歴史をさかのぼり「琉球王朝」についても知っておいた方がよいと思う。くしくも以前 放映された「テンペスト」が再放送されている。小説は入りにくかったがテレビドラマは分かりやすく気楽に見れるので勉強するには適材である。
40年前多くの沖縄の若者が船に乗り込んできたが、そのほとんどが短期間のうちに船を去ったと聞いている。小生と同年代の彼らの生きざまを想うと昨日の記念日は意義深いものがあった。

2012/05/02

無二の会

昭和40年、大学に入学以来今日まで公私にわたりお世話になっている恩師とその教え子3人(出来の悪い小生を筆頭に一期違いの優秀な後輩二人)の会の名称である。4人の頭文字が「M」「U」「N」「I」と言うこともあり「無二の絆で生涯お付き合いをしてゆこう」との想いもあった。
第六回目の今回は静岡県で開催した。桜が見頃の伊豆半島を満喫した二泊三日の旅であったが小生にとっては思い出深い地だけに感慨もひとしおであった。北方トロール部に所属する船舶のドックが日本鋼管(NKK)浅野ドックから清水ドックに代わって以来2年に一度はNKK清水造船所に入渠した。
静岡に居を構えているU君の計らいで思い出の地である「造船所」「御穂神社」「三保の松原」「久能山東照宮」「石垣イチゴ」「清水港」等を何十年振りかで見て回ることが出来た。残念なことにドックは「JFE」と言う会社に社名変更されていたし、ドックハウスのあった場所には関連企業らしき倉庫が建っていた。バレーボールの全盛時代、ファンがドッグハウスに泊まっていた日本鋼管の選手目当てに押し掛けていたが、ある時選手と間違われサインを強請られ、しかたなく?選手になり済まし色紙にサインをした思い出がある。30年の歳月は風景そのものも変わったが、久能山の1159段の階段で足がツル自分も情けないくらいに体力が劣れたことを痛感もした。夕食は、船乗り時代夜な夜な出没した夜の街で海の幸を肴に痛飲した。翌日は熱海、伊豆、沼津と言ったドック中のレクレーションで訪れた名所を見て回ったが昔の風景は見事に様変わりしていた。今回初めて気づいたことであるが静岡と言うところはやたら「枝垂れ桜」の多い所であった。ほぼ満開の枝垂れ桜がいたるところで咲き誇っていたが特に駿府公園の桜並木は見事であった。最終日は浄蓮の滝、修善寺の竹林、柿田川湧水を散策し茶畑の中を通り抜け「富士山静岡空港」より帰途に就いた。一年に一度、会うたびに皆さんの頭の毛は薄くなっていくが?「絆」は濃くなっていくようで実に楽しい会である。来年は我が大分県で開催する予定であるが、、、はて?皆さんをお連れするような場所はあるのかなあと機中ぼんやりと考えてみた。温泉に浸かり「ふぐ刺し」「関サバ」を肴に盛り上がるのも又良しか!